ディオニュソス神は、ニーチェが自己哲学の根本原理として取り出した神であります。
では、ディオニュソス神を基にして、ニーチェの思い描いた精神をみていきましょう。
●まず、ディオニュソス神と対峙するアポロン神についてお話します。
アポロンとは、"調和"と"均整"の神であり、"中庸"の美徳を表すものでした。
古代ギリシャにおける美の神であり、光と造形の神であり、理想の青年像でした。
理想の青年像、アポロン。
これはつまり、キリスト教でいう来世であり、プラトン主義におけるイデアを表します。
それらは「理想」なのです。
「理想」は人間の理性がつくりだした幻想です。つまり「神の世界の真理」です。
ヨーロッパ、特にキリスト教社会においては、「神の真理」以外認めませんでしたから、その「神の真理」が表されたものがアポロンだったということです。
つまり、「アポロン=神の真理」です。

(右がアポロン)
●ディオニュソスはアポロと対峙する神です。

(ディオニュソス)
というのも、ディオニュソス神は、激情と陶酔と狂乱を象徴する神であり、破壊と創造の神でありました。
そしてニーチェは、自己哲学の根本原理として、このディオニュソス神を取り出しています。
どういうことか。
つまり、「否定と破壊」があって初めて、人間にとっての真実な生の「肯定と創造」が可能であると。
つまり、ディオニュソスは、一面では「生の永遠の豊穣と回帰」とを意味し、他面では、「苦悩と破壊と絶滅への意思」を意味するのであると。
つまり、生の根源的意志力、生きようとする意志(これをニーチェは「力への意志」と呼びます)は、まず現実の悪と虚偽とを否定する「破壊」の力として働き、次に、真に豊かで創造的な生の実現のために真実な価値を「創造」する力として働くのである、と。
従って、「ディオニュソス型文化」は、従来のものが破壊され、新たに豊かな生が実現された文化と言えます。このことを「永遠に自分自身を創造し、また永遠に自分自身を破壊する働きとしての、この私のディオニュソス的世界」とニーチェは言います。
でもこの言葉、どこかおかしくないでしょうか?
「永遠に自分自身を創造し、また永遠に自分自身を破壊する」
見事に矛盾していますよね。
そう、ニーチェの言う人間の真実の生とは、「矛盾・虚偽・頽廃を内包した生」なのです。ディオニュソス的世界は矛盾を内包しています。
「現実は矛盾を内包しています。しかしそれを避けることなく、この現実の生の中から、現実の生を通して、自らを救う世界観(創造性を自らのものとする世界観)を見出しましょう」とニーチェは説いているのです。
矛盾について、つまりこういうことです。
ここにコップがあるとします。
それを床に落として割ってしまいました。
さて、あなたはどう考えますか?
①コップが破壊されて無くなった。
②コップが破壊され、破片という新たなものが創造された。
お分かりですよね。
②の考え方をニーチェは大切にしたのです。
「破壊」=「創造」となるその動き自体、つまり、コップから破片に至る変容を、ニーチェは「生成」と呼びました。
「生成」はそれ自体肉眼で捉えられるものでもありませんが、「動き」という運動それ自体としては存在しています。
こうした一連の運動をもって、ニーチェは「破壊は創造の一部である」と説き、コップと破片の間にある「運動」を大切にしたのです。
世界をいきいきととらえて自成しつつあるもの、それが生成です。
ニーチェにとっての真理があるとしたら、それは生成そのもの。生成だけなのです。
つまりニーチェの世界観の根底は、「創造と破壊が一つの力となり、生の根源的意志力として示されたディオニュソスの世界」にあるのです。そしてこの「生成」は、キリスト教の彼岸主義とは異なり、徹底した此岸主義(現実主義)だということも大切です。
ニーチェは、ディオニュソス的生の意味をあくまで「大地(現実の世界)」の生として説いているのです。
「私は君たちに懇願する。私の兄弟たちよ、あくまで大地に忠実であれ。」
そうニーチェが言うのは、神なき世界において人間の生きうる場は、現実の世界(大地)であり、それ以外はどこにもないということを示しているのです。
真理は現実に人間によって求められ獲得されることによって真理となる。
このような
徹底した現実主義が、ニーチェの「大地の思想」なのです。
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